ずっと気になっているけれど、なかなか足を踏み入れる機会がない。そんなお店が誰にでもあると思います。僕にとってのそんなお店は、川島谷のちょうど真ん中あたりにある「一ノ瀬酒店」でした。築100年はくだらないような古くて立派なお屋敷で、昭和の雰囲気が感じられるペプシや保険の看板、店のガラス戸の奥には日本酒やワインが見えます。今回、勇気を出してお邪魔してみることにしました。
30店以上の多種多様なお店が川島にはあった
お話してくれたのは、店主の一ノ瀬金泰(かねやす)さん。ここ川島で100年以上も昔からお店を継いできた酒屋さんです。「さっきうちの蔵を探していたらこんなものが出てきてね」一ノ瀬さんがさっそく見せてくれたのは、川島のお店や企業がずらっと紹介されている古地図。見ると呉服屋や商店、材木屋、和菓子屋、病院、さらに酒蔵まで、約30を超えるお店が。生活に必要なお店は川島の中に全て揃っていたようです。
「こんなに川島にお店があったんですね!しかも酒蔵も川島にあったなんてびっくりです」
「この酒蔵はうちがやってたんだよ。一力っていう店名で日本酒を作ってた。こんなに大きい酒樽がゴロゴロあったよ。ただ、戦争の真っ只中にあった昭和19年に国の方針で酒蔵を統合する指令がくだり、お酒を作ることは無くなってね」
村に酒を届けるため、往復20キロを歩いた
80歳を超えた今もお店に立ち続ける一ノ瀬さん。20歳の頃は先代の元で、約10キロ離れた北小野の問屋からお酒を運ぶ仕事をしていたと言います。
「川島の人に注文を受けたら、荷車を引いて徒歩で北小野までいくんだ。当時は、お酒も配給制だったし、食糧不足で清酒なんてなくて安い合成酒だったけど、お酒は貴重でね。川島のみんなに酒を届けなきゃと、舗装されていないでこぼこの道を一生懸命歩いたよ」 宴会や晩酌など楽しい時間に欠かせないお酒を売る一ノ瀬酒店は地域にとっても欠かせないお店でした。戦後はお酒だけでなく、バスの燃料として木炭を作ってバスに供給するなど、その時々のニーズに応じて川島の生活を支えてきました。
最後の一店になっても
しかし時代は移り変わり、個人商店よりも多くの商品を取り扱うスーパーなど大資本が現れます。「とにかくたくさんの商品を仕入れて売るもんだから安くてね。小さなお店はなかなか太刀打ちできない。スーパーで買ってきてうちで売ったほうがいいくらいだよ」多様だった個人商店も次第に減少していき、古地図に載っていたお店は今日では一ノ瀬酒店ただ一つに。
そんな時代の変化に加えて昨今のコロナもあり、お酒を買う人はめっきり減ってしまったと言います。経営的にも厳しい中、最後の一店になってもお店を開け続ける一ノ瀬酒店さん。
お困りごとも楽しい雑談も。関わりが生まれる「村の玄関口」
その原動力は何なのでしょうか。
「うーん、よく分かんないけど…。でもやっぱり村のために尽くそうっていう思いは先代からずっとあると思う。それに、商売をしていることで他の集落と交流することができるんだよ。普通に暮らしているだけでは分からない地域の情報がここにたくさん集まってくる。だから、親戚をたどって県外から川島に来た人が“この人知りませんか?”って聞きに来たり、この間は熊を見つけて気が動転した郵便局員もうちに駆け込んで助けを求めに来たりさ」
一ノ瀬金泰さんの奥さんは、一ノ瀬酒店と地域の関係性についてこう語ります。
「お酒を川島中の人たちに配達しているから、お互いの顔がよく分かるんです。だから、例えば私たちのいない時にお客さんが来ても、“後で払いに来ます”って黒板にメモがあったり、お酒を買ってお金だけ置いとく人もいたり。そういう信頼関係ができているかもしれないですね」
取材中も、お酒を買いに来たお客さんが「釣りはいらねえよ」と親しみのある会話が聞こえてきて、地域との関係が深いことを実感しました。
「だから、ここはお店だけど、村のみんなにとっての玄関口みたいなものかもしれないね」奥さんはそう話します。一ノ瀬酒店のお客さんの1人は、「一ノ瀬さんのところにはお酒も買いに行くけど、それよりお話しにいってるかも」と話してくれました。
お店があることの価値は、単に商品が買えるというだけでなく、川島を「ひらけた場所」にし続け、内や外の人が繋がるための、「縁側」としての価値もあるのかもしれません。そう考えると、お店が川島にあり続けることの価値はとても大きいように感じます。
「できる限りお店は残し続けたい」と話す一ノ瀬さん。変わっていく時代の中で、川島の変わらない昔ながらの風景を100年以上にわたって守り続けてきました。次の100年もこのお店を引き継いで、川島らしさを繋いでくれる人がいて欲しいと思う取材になりました。
一ノ瀬ご夫妻、美味しいヨーグルトと漬物と楽しいお話をありがとうございました。 (文・写真=北埜航太)