文化

炭が暮らしのど真ん中にあったころ。

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2019年12月に行われた炭焼きPRイベントの際の写真。左上から、立澤富朗さん、山本忠義さん、吉田秀志さん、小野拓輝さん、伊藤優さん、小澤保さん、中山信郎さん、一ノ瀬秋雄さん、根橋英男さん

日本の原風景がのこる風光明媚な里山、辰野町川島の誇れる人や文化、取り組みを紹介するかわしま地域新聞。今回は、日本でも数少なくなりつつある、炭焼き文化を川島で継承する、炭焼き職人の根橋英男さんにお話を聞きました。

サラリーマンから炭焼き職人になるまでの背景や、電気やガスが普及する前、炭が重宝されていた川島の昔の暮らしぶりなど、炭をテーマに川島の今昔に迫ります。

石器時代から続く「炭焼き文化」

そもそも「炭焼き」とは、木炭づくりのことで、バーベキューや火鉢などで使う木炭をつくることを指します。製造工程としては、山から切り出したナラの木を、特製の炭焼き窯に詰め込み、火を付けます。

火は直接は当てずに、熱で木から水分を飛ばし、最終的に炭化するまで燃やし続けます。炭化したら、窯から出してノコギリで使いやすいサイズに切断すれば、私たちが日頃から目にする炭の完成です。

日本では石器時代のころから炭焼きが行われていたという説もあり、何百年も生活になくてはならない存在でした。だからこそ、昭和前期ごろまでは炭焼きがれっきとした仕事になっていて、炭を使った暮らしも当たり前だったと言います。

サラリーマンから炭焼き職人へ

「おれらが小学校の時は夏は農業をして、冬は炭焼きをして稼いだもんだよ。山に穴を掘って、即席の窯を作って、そこに切り出した木を入れて炭を作ったもんよ。今では信じられないかもしれないけど、会社に行くよりも山で働いた方が稼げた時代があったんだ」

そんな根橋さんが本格的に炭焼きを始めたのは、平成12年ごろのこと。工業メーカーを定年退職したのち、川島の炭焼き文化の継承を行う協力会に関わるように。

そこで当時、同会のリーダーだった一ノ瀬秋雄さんに会の取りまとめを託され、今日まで川島の炭焼き文化を守り続けてきました。

「そんな炭焼きの難しいところは?」と聞くと、「木や空気中の水分量、火の加減によっても出来が全く異なるところだね。何度やっても思い通りにはなかなかいかんよ」と根橋さん。

特に、火を付けて止めるまでのタイミングが重要だとか。火を早く止めると生焼けになって、真っ黒な炭にならないし、遅すぎると全て焼けて灰になってしまう。釜から湧き出る煙の温度や色を確かめながら、絶妙なタイミングで火を止めていきます。その塩梅こそがまさに職人技。

炭を焼き続ける原動力

また、“難しさ”は技術面だけでなくこんなところにもあると話してくれました。

「あと何より難しいのはな、薪に火を燃やし続ける2、3日間。ずっと一人で火の面倒をみてないといけんから、そこが寂しくてたまらんなあ。何度やってもこればっかりは慣れんよ」

寡黙な職人といえどやっぱり孤独は同じようにつらいのだと親近感を感じます。私も12月の炭焼きイベントでは、ほとんど全ての工程を体験しましたが、確かに寒空の中で朝から晩まで火が絶えないよう見守り続けるのは体力的にも精神的にもかなりの忍耐が必要になりました。決して楽ではない仕事なのに、根橋さんはなぜ何十年も続けられるのか、イベントの時から素朴な疑問でした。

「自分一人でやれって言えば多分やらんだろうなあ。でもずっと絶やさずにやってきた地域や協力会、かやぶきの館とのつながりがある。そこに協力したいという思いもおれの中にある。だからこそやり続けてこられたんだと思うよ。自分のためだけじゃ頑張れんよ」

言葉には控えめながらも熱のこもった思いが感じられ、そこに根橋さんの原動力が垣間見えたようでした。

不便だからこそ「家族」になれた

では、そんな炭焼き文化が今よりもずっと生活に身近だった昭和前期、炭はどんなふうに使われていたのでしょうか?

「冬になるとコタツの中に細かい炭のかけらを入れて温めたり、囲炉裏の中に入れて料理を作ったりしたね。あとは、昔は家で養蚕をしていたんだけれど、冬に蚕を温めてあげるのにも重宝したよ。だから炭を作り続けられるよう、おれらはしょっちゅう山に入って木を間伐したり、みんなで木を植えたりしてたね。暮らしと山は一体だった」

そんな昔の暮らし。電気やガスのある現代に比べて、手間もかかるし、決して便利とは言えません。でもだからこその「繋がり」があったと根橋さんはいいます。

「昔は今でいうトラクターみたいな便利な機械もなくて、せいぜい人の手と馬くらいしかなかった。だからこそ、今日はあの人の家の田んぼを手伝う代わりに、次の日はうちの田植えも手伝ってもらうみたいな助け合いがあった。今では信じられないだろうけれども、おれらが小学生の時にはお風呂も男女一緒に共同浴場に入ってたし、村のみんなはほんとうに家族のような感じだったんだ」

「便利になってからは、みんなが協力し合う必要がなくなって、地域のつながりも薄れてしまったね。炭焼きも減るし、共同で手入れしていた山にも人が入らなくなって、人が住む川島の集落にも獣が降りてくるようになってきた。それも暮らしと山が遠くなってしまったことが大きいね」

せめて思いだけは受け継げたら

そんな時代の変化がありながらも、今も毎年冬になると、かやぶきの館で使う数トンもの炭をつくってくれる根橋さん。

「年齢もあるから、次の世代に炭焼きを引き継げたらいいとは思っている。ただ、今はどこの部落も40、50代が少なく後継者不足。炭焼きも、川島のことも、次の世代のみなさんがどういう風にしていきたいかは話してみないと分からないし、おれたちの考え方を押し付けること
もできない。おれはずっと住んできた川島が好きだから、なんとかなったらいいなあとは思うけれども…」

炭焼き文化を守り続けた根橋さんたちのように、地域や社会を力強く引っ張ってきた団塊の世代。そんな先輩たちの「引退」と一緒に、地域の行事や文化も受け継がれずに消えてしまいつつある、という話を最近耳にします。もちろんその全てを引き受けることはできないかもしれないけれど、せめて先輩たちの思いはしっかりと受け取って、次の時代に合う形で残すことができたら。

根橋さんのお話を聞いて、そんな思いを持ちました。この新聞もそんな思いの継承に少しでも繋がったらと思います。

炭焼きは3月も行われる予定です。もしよければあなたも炭焼きの様子を覗きにきてみませんか?

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