地域創生

東京で働いた市川さんが出会った、川島という理想郷

川島の奥集落、源上耕地に佇む、「農家民宿 月のもり」をご存知でしょうか?

1日1組限定でオーナーの市川さんが手作りした有機野菜のお食事が楽しめる月のもりは、全国から宿泊客が訪れる人気のお宿。そんな市川さん、元々は東京の化粧品会社や高級ブランドで働いていましたが、長野オリンピックのあった21年前に川島に移り住んだといいます。キャリアウーマンから農家民宿のオーナーに転身した、川島に移り住んだのはなぜだったのでしょうか?市川さんの波乱万丈な半生に迫ります。

今日はよろしくお願いします。ご存知ない方のために、まずは月のもりについて教えていただけますか。

農薬や化学肥料なしで育てた自家製野菜の料理を提供する農家民宿です。おかげさまで、最近は全国からお客さんが泊まりに来てくれるようになりました。特に、化学物質過敏症の人や電磁波過敏症といった、いわゆる現代病に苦しむ人たちが安心して泊まれるお宿は日本でも少なく、月のもりは有名になっています。

今では農作業や民宿を営まれていますが、元々は全然違うお仕事をされていたんですよね。

そうなんです。信じられないって言われることもあるんですが、元々はデザインの学校を出て、東京の化粧品
会社や海外ブランドの会社でバリバリ働いていました。

広告部門で何千万円というお金を動かしたり、1着何百万円もする服を売るような仕事です。ただ、東京の暮らしはお金がないと食べることも住むことも人間関係すらも持てない。

そんなバブル経済の生活で少し自分をすり減らしていた時期でもありました。そんな時、転機となったのがアジアへの旅でした。

アジアでの体験が川島移住の原点

最初に旅したバリでは、現地のお家にホームステイしたんですが、そこでの暮らしが衝撃的でした。

夕食になるとお父さんが「よし晩飯だ!」と言って、庭にいる鶏を捕まえて、首をポンと落として。それをそのまま焼いて出してくれたりとか、「昨日の夜ココナッツが落ちてきたから今日はココナッツだ!」と言って朝食に出してくれたり。

また、インドやネパールを旅した時には1日1ドルで暮らしているような人たちにも出会いました。彼ら、自分の暮らしすら厳しいはずなのに、私にご飯を食べさせてくれようとしたり、「お茶飲んでけ」って優しくしてくれて。

「その優しさはどこから来るんだろう」って感動を覚えました。そういう自然とともにある暮らしや人の優しさを20代で体感しました。

バブルの中で心をすり減らして生きていた自分にとってはアジアに行くと「人間ってこうあるべきだよなあ」って思えるような文化や人の暖かさを感じられたんです。そしてそういう居心地の良さが川島にも感じられたんですよね。だから私はここが大好きなんです。

移住を後押ししてくれた、
“川島のお父さん”

アジアへの旅が市川さんの原体験だったのですね。では、移住のきっかけはなんだったのでしょうか?

21年前、長野オリンピックの時に川島に移住しました。息子のアレルギーがひどく、安心して暮らせる場所を長野県内で探していたところ、知人に紹介されたのが川島だったんです。

ただ、この移住が一筋縄ではいかなかったんです(笑)。まだ地域への移住が当たり前でなかった時代、オウム真理教などの影響もあって、移住するためには川島の総代さんやPTA会長さんなど地域のリーダーたちの前で、なぜ移住したいのかを説明しなければなりませんでした。

私はそこで「ここ川島に、誰でも来られる場所、オーガニックビレッジを作りたいんだ!」と熱弁したんです。そこは、農薬も化学肥料も使わない田畑で体に優しい野菜を育て、提供する農家民宿がある、そんな場です。

みんなポカーンとしていました(笑)それも当然、私は農業なんて全くの未経験だったし、当時は無農薬で農業をやるって川島の人からしたら「やったこともないのにこいつはばかか」くらいの話で。

でも、なかなか思いが理解されない時に、地域のリーダー的存在だった赤羽正章(まさあき)さんだけは信じてくれた。

「こいつは本気だ。今ここでこいつの味方をしなければ一生後悔する。後から聞いたんですが、とにかくこいつのためになんとかしよう」と思ってくれたみたいで。

私が源上に引っ越す時にはわざわざ菓子折を持って一緒に全戸をまわって「こいつを頼みます」って頭を下げてくれたんです。実は私、実の両親とはあまり仲が良くなかったんです。だから引っ越しの時もあまり手助けはしてもらえなかったんだけど、正章さんは実の父のようにしてくれた。鎌の持ち方から畑の耕し方まで手取り足取り、時には引っ叩きながらも教えてくれました。

正章さんは助ける時は助け、庇う時はかばい、いじめるときは誰よりもいじめて(笑)。そして呑む時はとことん2人で飲んで、

「このくそじじい!」なんてことも言い合いながら(笑)。

そんなふうにいじめながらも私のへこたれ具合をちゃんと確認しながら、可愛がってくれたんです。

「お前ならできる、お前にはその負けん気があるから絶対大丈夫だ」っていって。

なんでもかんでも優しくというわけじゃなくって、それが私にとっては本当に素直に受け入れることができて、この人についていこうと思える存在でした。

正章さんは2年前に亡くなっちゃったけれど、今でも田んぼをやっていると正章さんがすぐそこで
見てくれているような気がして。

いまも「お父さんが思っているよりも上にいったる!」っていう思いで頑張っています。

20年越しの“夢”が
いよいよ実る

川島の人たちの暖かさを感じるエピソードで私たちまで胸が熱くなってしまいました…。
ありがとうございます。最後になりますが、市川さんの今後の夢についてお聞かせいただけますか?

おかげさまで農家民宿は軌道に乗ってきたので、いよいよ移住当初からの夢だった「オーガ
ニックビレッジ」の実現に向けて動いていきます。

畑で育てたオーガニックのとうもろこしを、放し飼いした鶏に食べてもらって、さらにその鶏のフンが肥料にもなり、彼らが歩き回ることで畑も耕され、健康な鶏から栄養満点の卵が生まれる。

卵は鶏のサポーターになってくれた人には少し安くおすそ分けしたいですね。

そんな風に、自然と人間が共生した循環型のビレッジを作りたいです。アジアで旅した時に体験したあの暮らしみたいに。

私、ここ源上で田んぼ仕事してると、いま自分が川島にいるのか、アジアを旅してる途中に田んぼに迷い込んだのかわからなくなる瞬間があって。田んぼって私にとってはアジアに通じてる。だからこんな場所で暮らせて幸せです。

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